坂村真民と妙縁(10)空円光 「感即動」 「感即動」には「感即動」で応える、これが私の行動原則。「見る前に飛べ」だから、失敗も多い。だが、失敗は成功の元。躊躇逡巡してチャンスを逃す事を思えば、失敗は授業料。 さて、感動も強弱様々だが、一般的に言えることは、その感動は日が経つにつれて薄まるということ。だから、100%少なくとも90%の状態の時に、相手に伝えるのが理想。 振り返ると、まだま村銘々の恩人の松本明重会長やアシックスの会長とのご縁は、いずれも、講演を聞いたその夜、まだ感動冷めやらぬ内に手紙をしたため、翌日朝一番に投函したことの成果である。魂から出た感動の言霊は、相手の魂に強く響き、親愛の情の返信を頂けることになる。そこから、親密な交流が始まり、人生の大きな精華に結びつくのである。 同じ意味合いの「感即動」で、まだま村来村の翌日、魚谷さんに連絡を取った。一度ゆっくり話をしたいという私の要請を快く承諾してくれた。その後直接会い、私が長年温めていた勉強会の立ち上げの協力をお願いしたところ、これも快諾して頂いた。 それで私は意を強くして、勉強会の中味を鋭意練り上げた。この度、それに関する多数の資料を、魚谷さんから送って貰い、当時の状況をつぶさに思い出している。特に草創の時の「聖賢に学ぶ 龍馬倶楽部」の栞は、沸る様な熱い血潮が噴き出てくる内容だけに、シュトルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)の血を騒がせるものとなっている。この龍馬倶楽部の説明は後ほどする。 スタート時の話に戻すと、何度か打ち合わせを重ねて、取り敢えず奈良を起点に、1995年4月から勉強会をスタートする事が決まった。 具体案が纏まったところで、魚谷さんがまだま村を訪問したメンバーに連絡を取り、東京と沖縄に早速支部ができる予定となった。まずまずの滑り出しに、意欲が湧いた。 ところがである。準備万端整った所で、驚天動地、信じられない事が起こってしまったのだ。1995年1月17日、阪神淡路大震災。勉強会のことなど一瞬にして吹っ飛んでしまう未曾有の大災害。 実際、当時西宮市の明推協の田中局長と知己だった為、まもなく支援物資の仕分けボランティアの要請があった。そこで、友人、知人に声掛けして、何度も現地に応援に出かけた。魚谷さんも、JCの関係で、奈良から足繁く神戸までボランティア活動に通った。 当然のことながら、その頃の風潮として、殆ど全ての催事や行事は、おしなべて中止又は延期となった。私の勉強会は個人的なものとは言え、震災からほどない4月のスタートには、正直躊躇った。色々思案し、ほぼ延期に気持ちが固まったところで、意を決して魚谷さんに打診してみた。 「一つの言葉で運命が変わる」当然、同意が得られるものと予想していたが、意外も意外次の様な返事が返ってきた。「延期は妥当かも知れません。しかし、こんな時だからこそ、逆に志の勉強会を予定通り始めましょうよ」 彼のこの力強い言葉に、私は肩を押され、迷いなく果敢に勉強会をスタートする決心がついた。1995年4月、第一回「龍馬倶楽部」の勉強会が呱々の声を上げた。あの困難な時のタイミングを外していたら、恐らくその後の12支部(奈良、京都、東京、宇都宮、千葉、沖縄、茨木、東大阪、和泉、西宮、大阪2カ所)の拡がりはなかったであろう。