Blog, 魂のサプリ 魂のサプリ2「空無捨」と「無常」の随想 利他の行者である山本様より、思いも寄らぬ心に響く写真(下写真)が届いたので、お福分けさせて頂く。山の霊石に「空無捨」。この着想は山本様ならではである。海抜600mの太神山の秘密の瞑想場所。「空無捨」の右の大岩は「不動明王」と名付けられている。見るからに霊験あらたかな霊気が伝わって来るではないか。 ここで何故かふと、蓮如の「白骨の御文章」の有名な件が浮かんで来た。「朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。既に無常の風来たりぬれば、即ちニの眼たちまち閉じ、、、」 いのち(霊命)と無常を深く考える糧として、上の言葉の前後の意訳を下に引用したので、是非読んで頂きたい。ウクライナやパレスチナで、一般市民の命が枯葉の如く「無常の風」に吹き飛ばされているが、これは決して他人事ではない。何故なら人も自然も宇宙も命はみんな繋がっているからだ。80億の全人類は宇宙船地球号の乗組員であり、運命共同体なのだ。この明々白々の事実から眼を背けてはならない。命は授かりものであり、生かされていること、我が命は我が命であって且つ我が命ではない。自他不二。だから、戦争当事国の人々の命は我が命であるという自覚なしに、和平も停戦も戦争終結もあり得ないと思う。 見せかけの平和に安穏としている我々が、喪に服する礼をもって、事に対処しない限り、恒久平和は絶対にやって来ないとも思われる。 ところで、蓮如の御文章は、乱世、末世の「諸行無常」の中で、命の儚さを克服するには、もはや他力本願、南無阿弥陀仏しかないと結論付けられている。南無阿弥陀仏の一念で極楽浄土へ往生出来るということで、当時の民衆の多くが、縋る思いで浄土信仰に吸い込まれて行った事情が良く解る。 だが、室町時代と違って、科学が格段に進歩した現在、南無阿弥陀仏を真から信心している人は少ないと思う。それと、普遍性の点でも問題だ。矢張り、村上和夫先生のsomthing great、更にそれを詩的に表現した「大宇宙大和楽」が妥当なのではないか。 魂と叡智を授けられている人類の命(霊命)を考えれば考える程、宇宙の意志としての「大宇宙大和楽」を推しはからざるを得ないのである。 真我の魂の底から、宇宙の声なき声を聴き届けない限り、世界のユニテ、世界の平和が訪れることはないだろう。 人間のはかない人生をよくよく考えると、この世の中でおよそはかないものは、あっというまに迎える人生の最期である。いまだかって万年も生きたという話を聞かず、一生は早く過ぎるものである。現在でも百年を生きることは難しい。自分が先になるか、人が先になるか。今日とも明日とも知れない命で、遅れる人早く亡くなる人は、木の葉の露、雫の数よりも多い。そうであるならば、朝元気であった者が、夕方には死んで骨になるかもしれない。無常の風が吹いたら、たちまちのうちにまぶたは閉じ、呼吸も停止して、顔色がむなしく変って赤みを失う。そうなれば家族・親戚が集まって歎き悲しむが、蘇生効果はない。さてすべき事をしなければというわけで、遺体を野外に送り、夜中に火葬をして煙となれば、わずかに白骨のみが残るだけである。これはあわれというよりもおろかなことである。ではどうしたらよいかというと、人間のはかない命は老若の順とは限らないので、誰もが早い時期から死後の生の大事を心にかけ、阿弥陀仏に深くおすがりして念仏すべきである。恐れ多いことよ。恐れ多いことよ。