死のうと思う日はないが
生きてゆく力がなくなることがある
そんなときお寺を訪ね
わたしはひとり
仏陀の前に坐ってくる
力わき明日を思うこころが
出てくるまで坐ってくる
この詩は先生が40代の時、
宇和島の臨済宗大乗寺で、
本格的坐禅修行をされた
実体験に基づいている。
だから、腹にズシンとくる。
又生命力がじわりと湧いてくる。
この詩が機縁で自死を免れた人がいる
というのも頷ける。
ここで、
最近の自殺者総数が気になったので調べてみた。
驚いたことに、
令和4年21881人、
令和5年10月現在で16380人.
令和4年は、小中高生514人、
過去最多とあった。
自殺未遂者と
潜在的自殺願望者の数を含めると、
悍ましい数に登る筈だ。
要は、生きてゆく力を失っている人が、
いかに多いかということだ。
そして問題は、
そのような人たちを
救済する受け皿が、
「いのちの電話」以外
全くないことだ。
社会の片隅でひっそりと自死する人たちは、
難民同様、完全に見捨てられている。
人間疎外から
人間生命(霊命)の軽視という
重大な社会問題だが、
政治的解決を求めるには、
優先度が極めて低いから
政治課題の俎上にも載らない。
そこで上記の詩にもあるように、
寺とか神社とかが昔のように、
心の病院の働きが出来ないものかと思う。
門戸を開いて、
気軽に駆け込める
「子供110番の家」のような、
緊急避難所を提供して貰えないだろうか。
大本山永平寺のホームページを見て、
ふとそんなことを思った。
ホームページの冒頭
「あなたも坐禅に親しんでみませんか」の後に、
先生の上記の詩が
全文紹介されていたのである。
思わず嬉しくなって
空想を膨らませてしまった