Blog, 坂村真民先生との妙縁録 坂村真民と妙縁(7)空円光 「永遠の刹那」を切り取った一枚の写真。私38歳、真民先生76歳。慈愛そのものの先生の笑みに、優しく包み込まれている私。先生との妙縁はここから始まる。胸に抱く色紙、「念ずれば花ひらく」の「念」は、未知の荒野への壮大な「念花」の旅の道しるべとなった。 「念」は、仏道修行の行者、真民先生の命であり魂である。先生最後の本(95歳)も「念に生きる」であった。詩念一道の人生を、先生は次のように述べておられる。 「賦算紙<詩国>が一回も休刊なく五百号に達したのも「念」のおかげです。また弱い体のわたしが、九十歳をこえることができたのも「念」のおかげと思います。「念」にはそういう不思議な宇宙生命のようなものがあると思います」 一般的にも、人生は念の積み重ねと言って良かろう。因縁果という言葉があるように、念は因(種)であり、縁あって、果の実を結ぶ。当然、善因善果、悪因悪果となるから、どんな念(おもい)の種を蒔くかは、細心の注意を払わねばならない。先日「念」について、友人から「マインドフルネス(正念)を生きる」という新聞記事を送って貰った。ベトナムの仏教者ティック・ナットハンさんの話である。「仏道とはマインドフルネスを生きることである。正念とは「わたし」の原点であると同時に、人間の原点でもある。そこに立ち戻ろうとする願いを念願とよぶ」 なるほど、念でも、失念、邪念、妄念、怨念などは論外、八正道の正念でなければならない。つまり、物事の本質をあるがままに心に留め、常に真理を求める心を忘れないこと。簡単に言えば、無我無心であること。だから、念ずるのも、正念で念じなければならない。となると、生半可な単なるお願いでは駄目ということだ。 さて、「念」に始まった先生との妙縁も、二回の臨死体験を経て、いよいよ最終章に向かっている。「大宇宙大和楽」の先生の真言の遺志を継いで、朝昼晩念唱することは、完全に日課となった。後は、その広宣流布に不惜身命を賭するのみだ。 弾みをつける意味で、「坂村真民生誕115周年記念合唱祭典」の「念」の種を既に蒔いた。まほろばくらぶ奈良及び高橋さん率いる合唱団の協力を得て、既に着々と準備が進んでいる。4月7日には、古都奈良の地で「大宇宙大和楽」の大輪の花が咲くことになっている。勿論、先生も御降臨いただけるだろう。 動乱の世界にあって、大宇宙大生命と一体になっている坂村真民先生の永遠の魂に邂逅することは、きっと皆さんの人生にとっても揺るぎない礎の一助となるに違いないと確信する。 補足として、特に言及されていないが、「念ずれば花開く」(仏道)と「大宇宙大和楽」(神道)の神仏習合(融和)の達成に、先生は大満足であったに違いない。只、これまでもお話しているように、「大宇宙大和楽」の開眼開悟(82歳)が、遅きに失したことは感は否めない。