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空円光(立花之則)77歳7月7日七夕の旅立ち

覚悟を決めた瞬間

父との面会がオープンになり、
いつでも面会が許されるようになったのは
病院の先生から
「1ヶ月持つかどうか」と言われたからでした。

入院することをずっと拒んでいた父。
病院に入ったら薬漬けで出られなくなることがわかっていたからでした。

けれども、
ある日突然歩くことが難しくなり、
起き上がることも難しい状態になりました。

「直子とお母さんでは無理や、大変や、入院する」

父が覚悟を決めた瞬間でした。

私はなんとなく父とお別れの時が来ているということがわかっていました。

救急車は呼んだら30分ですぐ家に到着してしまいます。

私はまだ父と色々話をしたかったから
救急車をすぐ呼んで欲しくなかったのに、
父は救急車をすぐ呼んでしまいました。
残された時間はわずか30分。

私は急いで2階に行きギターを手に取り
父に歌をプレゼントしようと思いました。

「お父さん、新曲まだ誰にも披露してない曲をお父さんに最初にプレゼントするね」
と私は言いました。

歌っていると涙が止まらなくなりました。

父も車椅子に座りながら外の庭を見て私の歌を静かに聞いてくれました。

「もっとその曲は練習せなあかんなー。お父さんは昔の歌の方が好きやなー」

そういうので、20代の頃に作っていた歌を歌ってあげました。

「旅立ち」という歌。

歌いながら父が倒れてからの6年間が走馬灯のように思い出されてきました。

父はよく頑張った。
そしてそれを支える母もよく頑張った。

父は私の歌を聴きながら天井を見て涙を必死にこらえているように見えました。

歌を何曲か歌い終わり、
救急車が到着してしまいました。

玄関から見渡せる山を眺めながら
父はゆっくりと車椅子から救急隊が運ぶベッドに横たわり
父を乗せた救急車はやがて実家から見えなくなりました。

 

その日は病院に行っても面会が制限されたこともあり、父に会えないまま家に戻りました。

数日後に病院で会った父はかなり衰弱していました。でも意識ははっきりあり、私たちの話していることはちゃんと理解でき、声が出にくくなっていましたが、ちゃんと話には応えてくれました。

「お兄ちゃん(息子)に会わなあかん」

父は精一杯の言葉を私たちに発しました。

「わかった。お兄ちゃんを連れてくるね」

そういうと父は首を縦に何度も振りました。

父の容態

「立花さん若かった時モテたでしょう。ハンサムな顔してはるもん」
看護師さんたちは笑いながらはそんなことを父に言っていたそうです。
そしてその言葉にもちゃんと笑いながら父も反応を示していたそうです。
お昼はご飯も食べることができた父。

 

同じ時間帯に私は実家のデスクで作業をしていました。

カタカタカタ・・・カタ
カタ・・・カタ・・・

虫がいるのかなーと思っていました。
でも、動きがランダムでなんか変だなーと感じていたけど
仕事を終わらせることが先決だったので、
気にせず作業を続けていました。
するとまたカタカタ・・
カタ・・・

と、音がしていました。

何かがおかしい。
そう思って棚を見ても虫もいないし何もない。
でも手前に合った時計が止まったり動いたり変な動きをしていました。
この音だ、やっと原因がわかりました。

その瞬間病院から電話がありました。

「急いで来てください」

私たちが到着した頃には父は酸素マスクをつけて
意識が朦朧になっていたけど、
私たちが来たら目を開け反応を示しました。

「お兄ちゃんもうすぐくるからね」

父はこっくり頷きました。

しばらくして兄が遅れて到着しました。

「お父さん、ありがとう」
兄も涙しながら父の手を握っていました。

私も母も三人でお父さんにいっぱいありがとうを伝えました。
しばらく父と過ごすと
父は私たちの手を振り払いました。

「え?どういう意味?お父さん?帰っていいって意味?」

そう聞くと、大きく頷きました。
父は私たちが睡眠不足なことを気にしていたようです。

「本当に帰っていいの?」
私がもう一度聞くと、また首を大きく縦に振りました。

「わかった、明日朝必ずくるからね。お父さん大好きだよ」

私はそう言いました。
私たちは静かにその場を立ち去りました。

7月4日午前8時45分​

朝、思った以上早い時間に病院から電話がかかってきました。

私たちはすぐ病院に駆けつけました。

父は酸素マスクをつけたまま、前日よりも意識が朦朧としている状態だったけど、私たちが到着するとうっすらと目を開けました。

私たちのことがわかったようでした。

まるで映画のワンシーンのようなことが現実に起こっていました。

ピー、ピー、ピーピー、

心臓と血圧の数値が画面に映っていました。

「どんどん数値が下がってきています」

先生おっしゃいました。

兄は画面と父の状態両方を見ていました。
母は父の頭と首に手を回し、
父の薄れていく呼吸を見守っていました。

私は紫になっていく父の足の指先を必死でマッサージしていました。
でも、氷のように冷たくてどうすることもできませんでした。

どのくらい時間が経過したのかわかりません。

母がいきなり父に向かって
「命は生き通しだからね。大丈夫よ。安心して楽にしたらいいのよ」
そんな言葉を発した途端

うっすらと父は目を開けたそうです。
その瞬間、生き返ったかのように数値がばーっと正常に戻りました。

私も兄もびっくりしました。

そしてそれと同時にピーーーーーーーーーと
音が病室に鳴り響きわたる中
父は母の腕の中で息を引き取りました。

7月4日午前8時45分頃でした。

一心不乱の父の姿

父は6年前に脳卒中で倒れてから、
右半身不随で不自由な体を
一生懸命努力して使いこなしていました。

うまく手が動かない・・・
足が自由に動かない・・・
悔しい・・・

歯を食いしばりながら
一歩一歩杖をつきながら
前に進む父 
一文字一文字
全身を振り絞りながら
一心不乱になりながら
文字を書く父

時にそんな父の後ろ姿を見ては
私も涙することがありました。

父は人一倍
人の見ていないところで努力をする人でした。

亡くなる前の父は
イベントの告知のために
数百通もの手紙を反対の手で
書けるようになりました。

「こんな体でこんなことする人はいないだろう・・・」

父は書いた封筒に切手を貼り付けながら
静かにそう呟いていました

父が6年前に倒れた時も、
父が亡くなる時も
虫のしらせというのでしょうか
何かが起こることが私にはわかっていました。

だから父が亡くなる3ヶ月前に
「記事を書いたらとにかく私に送ってね」と伝えていました。
父が毎日のように
一心不乱で反対の手でスマホに向かって文字を打ち込み
私に一記事一記事送信してくれました。

何が書いてあるのか
私も知りません。

その記事を毎週1本づつこれから公開していこうと思います。

最後までお読みくださいまして。本当にありがとうございます。